「わが人生わが経営」 日本システム機器(株) 顧問 関幸夫さん
2018.02.16(金)

出会いを生かし成長 他者との「連携」で道開く
「当社ではコンピューター事業を核に、環境や人に優しいさまざまな商品を開発してきましたが、これはいろいろな人と巡り会えたからこそできたことです。経営理念に掲げる“一生の付き合いのできる集団”となるべく、今後もまい進して行きます」
関さんは1946年、小樽に生まれます。父親は異動の多い国鉄職員で、後志管内を転勤して回りました。田舎に住むことも多く「自然の中で遊び、育った。環境に関心を持つベースになっている」と言います。
小樽千秋高校(現・小樽工業高校)を卒業した65年、タイガー計算器(本社・東京)に入社します。当時、企業などに広く普及していた手動計算機のメーカーで、札幌支店に配属となり、メンテナンスをしながら全道各地を歩きました。「今は機械のメンテナンスと言えば、ブロックごと交換するのが主流ですが、当時は部品を一つ一つ点検し、悪い部分だけを見つけて交換していました。技術屋として鍛えられましたね」と振り返ります。起業の原点とも言える伝票発行機や計算機のプログラム作りにも携わっていきます。
手動計算機から電卓、そしてオフィスコンピューターの登場と時代が目まぐるしく変化していく中で、コンピューターへの関心が高まっていきました。会社の褒賞旅行で訪れたアメリカでは、開発中のスペースシャトルなどを見学し、コンピューター時代の到来を肌で感じました。
そして77年、30歳でOA機器販売、ソフト開発などを手掛ける日本システム機器を創業します。起業に当たり、メーカーから資本提携の打診もありましたが「自由な立場でお客さんに一番合っている商品を提供したい」と提携を受けず、独立系企業の道を選びました。
当時は事前にソフトをある程度作り、顧客に一度見てもらった上でコンピューター本体を購入してもらうのが慣例。価格も1台数百万円しました。このため「ソフトは作ったものの、代金をもらう前に相手先が倒産したことも。苦しい時があった」と言います。それでも持ち前の粘り強さと、82年に入会した同友会でコンピューター関連部会を立ち上げ、部会の仲間と切磋琢磨しながら会社を成長させていきました。
会社設立から20年ほど経ち、経営が軌道に乗った頃、関さんの考え方に変化が生じます。それまでは会社の規模拡大に注力していましたが「コンピューターはお客さんの会社経営にとって大切な要素。それを担っている私たちはお客さんと長く付き合えるよう、つぶれない会社にすることが一番」と方向転換します。
そこで「幅広い業種を対象にしていると、メンテナンスして回るだけでかなりの人数が必要。お客さんの細かなニーズにも応えられず、結果、サービス低下にもつながる」と考え、顧客の対象業種を絞り込み、より専門性を高めていく戦略をとります。
また、どんな社会の変化にも順応できる力強い組織にしていこうと新たな事業の柱を模索。環境保全の重要性がクローズアップされていたことを踏まえ、96年に環境事業をスタートさせます。
最初に手掛けたのは砂場の除菌剤「サンドプラス」。動物の侵入やゴミの投棄などで衛生的に不安のあった砂場で、子供たちが安心して遊べるようにと考案しました。また、シックハウスの社会問題化を受け、稚内ケイ藻土を主原料とする塗り壁材「北のやすらぎ」も開発しました。高い調湿性を持ち、化学物質の吸着にも効果を発揮するもので、国内だけではなく、世界遺産の紫禁城(中国・北京市)の内部改修にも採用されるなど海外でも高い評価を得ています。
こうした環境に関する商品は大学や他社の研究所、異業種交流で知り合った仲間と共同開発してきました。「中小企業では研究機関を持っているところは少なく、単独では難しい。しかし、他と連携することで道は開けてくる」
2013年、長年苦楽を共にしてきた水野博之氏に社長を譲り、顧問に就きました。経営全般は水野社長に任せ、自身は環境部門の柱をより太くすべく、興味のアンテナを伸ばし走り続けています。
同友会では理事を2000年から13年間務めたほか、産学官連携研究会(HoPE)の初代代表世話人をはじめ、さまざまな部会の発足に関わってきました。「必要だと思う部会があれば、みんなに声を掛け作ってきた。それを受け入れてくれるのが同友会の魅力」とし、現在、次の世代が同友会をさらに進化させながら会をけん引していることに目を細めています。
プロフィール
せき・ゆきお 1946年7月8日、小樽市出身。手動計算機メーカーを経て、起業。2013年から顧問。
日本システム機器㈱=1977年創業。OA機器販売、ソフト開発、環境関連商品開発等。資本金1000万円。従業員12人(契約社員含む)
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