札幌支部経営指針委員会 2024メールマガジン 第2号
2024.07.11(木)

「経営指針を語る」 第3回
株式会社ほりぞんとあーと
代表取締役 大野頌さん
経営指針委員会メールマガジン、第3回は札幌支部経営指針研究会の第1期生であり、現在も経営指針委員会で委員をなさっている株式会社ほりぞんとあーと 大野頌社長にお話をお伺いしました。黎明期の経営指針研究会の雰囲気や今感じていらっしゃることなどを忌憚なくお話しいただきました。
(文責 三原広聡)
—– <大野 頌(しょう)さんプロフィール>————————————————————————————————————-
株式会社ほりぞんとあーと 代表取締役
昭和17年11月7日 函館にて出生
昭和37年3月 北海道札幌北高等学校卒業
昭和37年4月 北海道大学医学進学課程入学
昭和37年7月 当社創業者、武内昭二に弟子入りし、舞台美術・舞台照明を学ぶ
昭和41年4月 北海道大学を中退し、ほりぞんとぐるうぷ入社
昭和45年 札幌バレエ劇場「ポギーとベス」にて照明デザイナーとしてデビュー
昭和47年5月 株式会社ほりぞんとあーと設立
昭和58年5月 取締役就任
平成16年5月 代表取締役就任
演劇・舞踊・オペラ・ファッションショー等の照明デザインを数多く手がける。近年は舞台照明のみならず舞台監督としても数多くの作品に関わっている。経営指針研究会第1期・第2期修了生。
【会社概要】
所在地:北海道札幌市西区発寒10条14丁目1067番地18
設立:1972年5月10日
主な業務内容:
・舞台装置、看板デザイン、制作および販売
・舞台テレビ照明のデザインおよび操作
・舞台テレビ音響のプランニングおよび操作
・学術講演会、各種催事のプランニングおよび運営
・劇場、ホールの舞台設備運営、操作、保守管理
・照明機器、音響機器、映像機器等の販売および貸し出し
上記各号に付随する一切の業務
従業員数:24名
URL:http://www.horizont-art.co.jp
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1.札幌支部経営指針研究会のはじまり
【三原】
大野さんは現行の札幌支部経営指針委員の中で唯一、第1期経営指針研究会を経験されています。いわばミスター経営指針といっても良い存在です。今日はスタート当時の熱気や雰囲気などをお聞かせいただきたくお伺いしました。
【大野社長】
第1期が始まる前年に、中央西が経営指針の研究会を作ったのですよ。(※注1)阿部さん(株式会社エール社長・当時※注2)が言い出したのかなぁ。中央西の取り組みを支部レベルで取り組んでいこうという話になって、2004年6月に札幌支部主催での第1期経営指針研究会がスタートしました。代表世話人は岩村純人さん(コロナセントラルサービス株式会社社長・当時)でした。
当時は人数が多くてね。第1期の研究生は40人以上いて、6つのグループで始まりました。自分のいた第5グループは8人いたので議論するのも大変でした。今と違って10年ビジョンが無い分、経営理念…というより労使見解の理解に時間を掛けていましたね。実質7月~6月のカリキュラムで、1か月に1回集って議論する1年間コースでした。
【三原】
僕は8期ですが、その頃までは経営指針=経営理念のイメージも大きかったと思います。
【大野社長】
みんな経営指針は経営計画までを含めたものとはわかっていたはずですよ。当時は経営理念の後に経営戦略、経営方針、中期計画の策定までカバーしていました。でも、とりわけ経営理念での気付きや労使見解への疑問が大きかったのだと思います。初めの2か月はずっとその議論をしていました。もう一つ今と違うのは、最終講に「経営理念の浸透」に一日充てていたことかな。
【三原】
「浸透」を考える最終講は僕の頃にはまだありました。当時は「実践」という言葉よりも、まずは経営指針を社員と共有するために「浸透」という言葉を用いていたのですね。思えば近年は社員への浸透を後回しにして「自分は実践している」という卒業生が見受けられるけれど、やはり社内への浸透は大切だったと気づかされます。
(※注1)2003年の時点で、中央西地区会の「経営指針つくりを学ぶ会」、北地区会の「経営指針研究会」、白石・厚別地区会の「経営指針で元気になる会」の3地区会、3組織が立ち上がっていました。-第1期経営指針研究会 報告集より-
(※注2)阿部隆行氏 札幌支部経営指針委員長、全道経営指針委員長を歴任
2.第1期の思い出
【三原】
第1期研究会の名簿を見るとものすごい顔触れですね。今につながる同友会の重鎮がずらりと並んでいます。当時からすごかった人っていらっしゃいますかね。
【大野社長】
やっぱり第1グループの田中傳右衛門さんは「ミスター経営指針」と言われていただけあって論客であり、実践報告などでも注目されていました。当時はサポーターがいなかったので、研究生同士の議論が進まないと話にならなかったです。互いを思いあいながら忌憚なく突っ込みあっていました。特に労使見解をどう思うかなどは、かなりやりあっていた記憶があります。みんな自分事として労使見解に向き合っていました。では自分はというと、実は第1期では腑に落ちていなくてね。結局第2期にも参加することになったのですが、あれは結局「正直になり切れていなかった」のだろうね。
第2期ではBグループに入り、犬嶋ユカリさん(株式会社井上技研 「経営指針を語る」第2回参照)が論客として心に残っています。
第1期はグループが多かったから研究会の場所探しが大変でした。あと、最後の方では自分たちで補講を開催して、ゴールデンウィークに集まって議論をした事が思い出に残っています。
【三原】
第1期生の真剣さが伝わるエピソードですね。確か13期くらいまでは毎回事務局員がついてくれて、進行をサポートしてくれていました。僕なんかサポーターより事務局の〇〇さんからのダメ出しが多くて(笑)。
【大野社長】
事務局員のみなさん、夜分遅くまでついてきてくれていましたね。研究会の運営に当たって、資料の用意から進行の手助けまで関わってくれていました。
3.札幌支部研究会のスタイルに影響を与えた函館道研での学び
【大野社長】
あと思い出深いのは第1期の期間中に函館で開催された道研です。その時に報告をされた青森同友会の蛯沢社長(故人 勝電気工業株式会社)の話は衝撃的でした。蛯沢社長は初め宮城同友会で経営指針つくりに参加されました。研究会修了後、「恩を返しなさい」と言われて青森同友会を立ち上げられた方です。創設時の代表理事を務めながら、青森同友会の経営指針研究会設立にも尽力されました。
【三原】
なんか熱量と行動力が違いますね。
【大野社長】
その時の宮城同友会の経営指針研究会というのが相当厳しかったらしいの。叩かれる系というか。サポーターじゃなくて指導員がついて、もうコキ下ろしというか、かなり悔しい思いをさせられる内容だったらしいんです。よく言えばダメなところをはっきり言ってくれる場所だったと。
【三原】
指導員!恐ろしいです(笑) 最近は人に伝える技術や作法は洗練してきましたけれど、ダメなところをダメとはっきり言ってくれる人ってなかなかいないです。僕は言ってくれる人がいたから今があるので、感謝しかないのですが。
【大野社長】
蛯沢社長もそうだったようで、青森同友会の経営指針研究会は今でも宮城詣でをしていると聞いたことがあります。受ける方もサポートする方もそのくらいの熱量があったんですよ。その後も蛯沢社長には何度かお話しさせていただいて、経営指針研究会は良い出会いをもたらせてくれるのだと思いました。
【三原】
狭い殻に閉じこもらないで、広く全国の事例や経験に触れることは本当に大切なんですね。大野さんのこれまでの経営指針委員やサポーターとしての活動で思い出に残っていることや、最近気になっていることって何かありますか?
【大野社長】
最近はあまり深いところまで議論しつくされていない気はしますね。自分の会社の事なのだからもう少し悩んでも良いではないかと思うこともあります。サポーターとしては何期だったかな?女性社長が多かった期があったでしょう?
【三原】
ありましたね。当時若輩サポーターだった僕なんか、中間一泊研修の時にまったく議論に入れなかったのを覚えています。
【大野社長】
面白かったよね。会社の方向性一つとっても女性経営者の方がはっきりしているんだよね。あれは発見でした。あとは三原さんと一緒に2年間千恵広地区会の研究会をサポートしに行きましたね。あれも良い思い出です。
【三原】
毎月恵庭に通いましたよね。事務局の村井君も一生懸命通ってくれました。議論が終わると何かと焼肉に行くので楽しかったです(笑)
<あとがき>
大野社長は経営歴も同友会歴も長いのに、いつも気さくに話をさせていただけるのが嬉しくて、いつも甘えてしまいます。今回も第2期の話や、研究生が集まらなかった時代の話など、もっと多くの話もお聞かせいただいていたのですが、経営指針研究会の黎明期のお話を中心に構成しました。初めてお聞きした話も多く、大野社長の懐の深さに感嘆した次第です。